<< たばこコミュニケーションの代わりとなるもの | main | マネジャーの仕事 第1章「マネジャーの仕事」 第2章「マネジャーの職務に関する現代の学説」 >>

マネジャーの実像 はじめに・第1章 マネジメントが一番大事

2017年9月29日(金)
マネジャーの実像
はじめに
第1章 「マネジメントが一番大事」
担当者:3年 千葉・臼倉
2年 木村・八倉
【要約】
◎はじめに
 この本の著者であるヘンリー・ミンツバーグは、社長をしていた父親が職場で何をしているのか?という疑問から、1973年に5人の経営者に密着し、『マネジャーの仕事』という本を書いた。その30年後、2003年にマネジャーをしている妻が職場でどのような日々を送っているのか?という疑問から29人のマネジャーを観察し、今回の著書である『マネジャーの実像』を書いた。

◎マネジメントが一番大事
 マネジャーが何をしているのか知ること自体はたいして難しくないという。では、何が難しいのか。それは、マネジャーがとっている行動をどう理解するか。マネジメントという営みを構成する多種多様な活動をどのように理解するか。というマネジャーがなぜそのように動くのか、なぜそのように動いたのというようなことを理解することである。

◎マネジメントに対する私たちの理解
 1916年、フランスの企業経営者のアンリ・ファヨールの『産業ならびに一般の管理』によると、マネジメントとは「計画し、組織し、指揮し、調整し、統制すること」だと言われている。その60年後の1977年、カナダのモントリオールの地方紙に市長の役割とは、「市のすべての活動を計画し、組織し、指揮し、調整し、統制すること」だと書かれていたという。
しかし、マネジャーになった人に「マネジャーになって変わりましたか?」という質問に対し、ほとんどの人が「何も変わりませんでした」と答えたという。つまり、マネジメントは誰かに教わるのではなく、自分でやり方を見出すしかないという。

◎マネジメントをありのままに見るのを妨げる三つの神話を打ち砕く
 そこで、本書ではマネジメントをありのままに見るのを妨げる三つの神話を打ち砕く
という。.泪優献瓮鵐箸魯蝓璽澄璽轡奪廚箸亙綿である。▲泪優献瓮鵐箸魯汽ぅ┘鵐垢覆い掘∪賁腟蚕僂任△襦マネジャーは大きな変化の時代に生きている。

◎リーダーシップはマネジメントの一部
 近年、リーダーとマネジャーを別物と考えるのが大流行であるという。そのような人たちの主張によると、「リーダーとは、正しいことをする人間であり、変化に対応するのが役割」「マネジャーとは、ものごとを正しく行う人間であり、日々の面倒な雑務に対応するのが役割」だという。理屈の上ではたしかに区別することは可能であるが、筆者は区別するべきではないと述べている。
 なぜなら、マネジメントができないリーダーにはついていきたくないし、逆も然りだからである。リーダーはマネジメントを他人任せにしてはいけない。マネジャーはリーダーでもあり、マネジャーはリーダーでもあるというのが筆者の主張である。
 マネジメントとリーダーシップを切り離して考えるべきではない。もし、切り離してしまったら「みんなで取り組むべきこと」が「一人の人間が取り組むこと」に変質してしまうという。なぜなら、リーダーシップが強化されれば、それと引き換えにフォロワーという一段低い地位におとしめられてしまい、コミュニティー意識が薄れてしまうためである。ほんとうに必要なのは、自然にものごとに取り組める主体的な個人からなるコミュニティーを築くことであるという。

◎マネジメントは実践の行為
 マネジメントはサイエンスではないという。それは、サイエンスとでは目的が違うからである。マネジメントを成功させるためには、サイエンスよりアートの力が必要でそれよりさらにクラフトの力が必要であるという。なぜ、クラフトの力が必要なのかというと、マネジャーのもとに残る仕事は解決の糸口が見えないものばかりだからである。そのような問題を解決するには、クラフト(経験)により蓄積されてきた経験や直感のような力が必要とされるからである。
 マネジメントは専門技術でもないという。なぜなら、マネジメントの方法論にマニュアル化できる部分はほとんどないからである。しかし、暗黙知はたくさんあるという。つまり、マネジメントは実務の場で学ぶしかないのである。
 この著書でのマネジャーとは、【組織の全体、もしくは組織内の明確に区分できる一部に責任をもつ人物のこと】と定義している。

◎マネジメントの今と昔
 マネジャーの課題は変化しているが、マネジメントの仕方は変化していないという。そして、時代とともにテクノロジーも進歩してきた。そのテクノロジーの進歩がマネジメントの特徴に拍車をかけているという。


【ディスカッション】
本書では組織が成功するには、世の主流である概念リーダーとフォロワーという付き従う関係ではなく、主体的な個人の集合体である必要があるといわれている。また、我々のゼミにおいてもゼミ生個人が主体的に活動することで成り立っている、はずである。しかし、ある日の新ゼミ生選考に当たっての議論において、とても主体的とは思えないような議論がなされた。自分たちが選考する身であるにもかかわらず、意見を言わない人が全体の三分の二はいたであろう。
このような状況ならば私たちゼミ生で議論する意義がないため、以後新ゼミ生の選考は私たちのゼミの先生が一人で行う形式で行うほうがよいのではないか、という議題を持ちかけた。
まず、議論を始める前にフロアから質問があった。「新ゼミ生選考のどこが主体的でなかったのか。」というものだ。発言する人が特定の人のみで、他の人は黙っていたのでとても主体的といえたものではないと感じていたが、フロアはそうは感じていなかった。フロアの意見を一言に集約すると二種類に大別することができる。一つは、「既存の選考基準で納得していたため発言しなかった。二つ目は、主に選考を経験していない二年生からの主張で、「選考を経験していないため、既存のものでやるものだと納得していた。」この二つが理由で自分の意見を主張しなかったのだという。このように発表者の私たちとフロアの新ゼミ生選考に関する議論について思うところがずれていた。
また、この議題をすること自体ナンセンスだというフロアからの指摘もあった。「そもそも、私たちのゼミは主体的に取り組むことが前提になっている。そのためこの議題を議論した結果、先生一人で決めるというゼミ生の主体性が損なわれる選択をすることは起こるはずがないため、議論の余地がない。」というものであった。以上のようなフロアの意見が出たため上記の議題について議論することは叶わなかった。
この結果に対する私たちの考えを記す。既に納得していたため、自分の意見を主張しなかったことについては、たとえ納得していたとしても自分の意見を主張することは大切なことだと考えている。皆が何を考えているのか分からない状態で議論が進むことはあってはならない。それは議論と言えないと考えた。また、私たちのゼミでは「発言しない者は、いないも同然。」という考えがある。新ゼミ生選考に対して何も意見表明しないのなら、ゼミ選考に参加しない(いない)も同然と考えることができるのではないか。せめて、同意だけでも示すべきというのが私たちの考えだ。
次に、議題自体がナンセンスという意見について私たちの考えを記す。この指摘については確かにその通りである。しかし、私たちの意図としては本当に先生に選考を任すか否かについて議論するのではなく、その議題について議論する中で私たちが新ゼミ生を選考する意味や責任、構えを再認識するため、また、選考が始めてとなる二年生がどのように選考に望むのかを理解するための議論となることを仕掛けたつもりであった。
ディスカッションのまとめとして、議題に対する議論はできなかったが、新ゼミ生の選考基準に全員が納得している事実を再確認することができた。

calendar
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031    
<< October 2017 >>
selected entries
categories
archives
links
search this site.
others
mobile
qrcode
powered
無料ブログ作成サービス JUGEM